最近触れた作品(2022/12~2023/1前半)

ここ1か月くらいで触れた作品の、一部だけ。

 

 

『明るい部屋 写真についての覚書』ロラン・バルト

・難しい。半分も理解できていない気がする。

・<それはかつてあった>という本質の話と、時間の圧縮の話は読んでいてビビッと来た。

・撮影者の視点や、自分自身を映した写真への言及が、欠けていたり乏しかったりした印象がある(「遠い」写真ばかり彼は取り上げていた気がする)。

・写真の時間は現在と繋がりを持たない絶対的過去。思い出を妨害する、反=思い出となる。という話がピンと来ない。

・今は誰でも手軽に写真が撮れて、ことあるごとに写真に残している(みんなが撮影者としての視点も持っている)。自分で撮った写真や、自分が写った写真を見返せば、その写真自体はたしかに過去のある瞬間に存在したある事物をそのままに見せつけるだけに過ぎないけど、記憶の引き出しを開けるきっかけになるし、そこに写っている時間は、今の自分を形作る人生の一部でもある。そして私が普段見る写真は、そういう自分が撮った写真、自分が写った写真――自分の人生に関わりのある写真ばかりだと思うので、どうしても現在との繋がりを否定するのが難しい。だから余計ピンと来ない。あんまり上手く解釈できている気がしないけど、この写真論のすべてが今も同じように通用するとも思わなかった。

 

 

アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」

・後藤に一番シンパシーを感じる。そして自分にとって身近な存在だからこそ、彼女の凄さ、かっこよさをより強く感じる。ああ、自分が歩めなかった道を踏み出せてるな......となる(これからの人生で歩んでいきたいとは思っている...どうにか......)。

・無責任な現状の肯定は好きじゃないっていう気持ちも、6話で描かれた自意識(私は克服できていない)も、わかるぞ...!!と思いながら画面の前で頷いていた。

いわゆる「ありのまま」の肯定、理念としては同意するんだけど、やっぱり感情が、そんな簡単に救われるなら苦労しねえから!と許してくれなくて、そういう憤りを後藤の中にも感じたり、している。

・毎日6時間もギター弾けるってすごい。すごいよ。社会不適合者(この表現を使っていっていいのか結構迷いがある。強く刺々しい言葉なので。人見知り&コミュ障は社会生活するには間違いなく不利な性質だとは思う)だけど、自分の好きなものにとことん熱中して、武器を磨いて、極めている。それでしっかり輝いていて、人を惹きつけていて、後藤はすごい......。私は社会不適合者な上に武器もないから...。後藤は私に無いものを持ってる、本当にかっこいい奴だなと思います。だから私はある面では後藤だし、ある面では喜多なのかもしれない。二人の「わるいとこどり」をしているような...。

・この作品を見てギターを押し入れから引っ張り出さないのは嘘。逃げ続けてきた耳コピというものにちょっとだけ向き合ってみたりした。

・忘れてやらない、いわば青春´ というか。よくある(陽の気を多分に含んだ)青春ではないしそれに向いてないことに自覚的なんだけど、それでも今だけの儚い輝きを求めている部分は確かにあって、今の後藤はそれを着実に実行できてる、してくれているな、という感慨がある。今の社会不適合者なりの青春の肯定をやってるし、忘れてやらねえ、何度でも思い出として笑ってやるっていう決意も込めてるので、もはやオタクの茶化す「黒歴史」でもないなと思う。

・好きなシーン:タンスに激突しまくる後藤。

・好きなシーン:よだれを袖で拭く後藤。でも後藤は特に焦った顔をしていないのが凄い。私は、こんなよだれの海、周りに見られてたら死!!!誰にも見られてないよな......?とめちゃめちゃ心配になりながらいつも拭いていたし、たぶん顔に出ていたと思うので。

 

 

『止まりだしたら走らない』品田遊

・短編集は続きは後で読むという行為のハードルが低いので、読み終わるまでに長い時間がかかってしまう。読み始めたのは1年くらい前だと思う。

・都築と新渡戸先輩をBLないしブロマンスで想像して読んでいたらまんまとトリックに引っかかってしまった。男性として読んでいた時は、作者の顔がチラついていたこともあり、めんどくさい捻くれ野郎(しかし共感はする)という認識が強かったんだけど、拗らせ孤独ガールだとわかった途端に、このかわいいやつめ~~!になった。

・「ピンクのサンダル」で引っ掛かり、「スカート」でトリックが判明した(そして本人の台詞で確定する)。これはピンク色やスカートに、女性が強く結びついているために起動できる仕掛けだが、ジェンダーの変容でいずれ起動できなくなるかもしれない。

・「好きだよ」のダブルミーニング、オタクの””癖””でとてもよい。

・エゴで都築を取り込もうとしていることに対する新渡戸先輩の葛藤もよい。わかるからこそ、好きなだけ苦しんだらいいと思うし、同時に、人間関係そんなもんだし打算上等でしょ、とも思う。所詮きっかけが打算だったに過ぎない、という状態にこれから持っていくことだってできるので。

・その他、好きなエピソードは「採点」。今日してしまった些細な言動のミスを反省する。人とコミュニケーションを取る日は、いつだって、そういう反省の連続。

・ゴーストタイムアタック、私もやろうかな、と思う。

 

 

「線たちの12月」

社交性の乏しい人間・内向的な人間にまつわる問題に対してこのコンテンツがどういう結論を出すのかは個人的にすごい気になっていた部分で、その答えを一つ見られたような気がする。人付き合いが苦手で、人一倍臆病で、ストレスを感じてしまう...そういう子がいる一方で、その子と仲良くできることを願う子もいて。その願いを、鍋に誘うのを遠慮したエピソードみたいに、「社交こそが良いこと」とでも言わんばかりに一方的に相手を変えようとするのではなく、相手の性格を尊重した上で、それでも、いつか、その人にとって安らげる、温かい人/場所になれますように...と祈る(そして、伺いながら少しずつ踏み込んでいく)。そういう優しさに還元してくれたのが本当に良かったし嬉しかった。

・その人がどう感じるか(何に傷つき、何を幸せと思うか)は、知り合っていくうちに少しずつは見えるようにはなるけど、完全にわかることはない。だから、人との関わりの中で、相手をどうこうしたい時は、少なからず、どっちに転ぶかわからない挑戦をしなければならないのだと思うし、その挑戦はとても美しいものだとも思う。また、浅倉さんの優しい嘘は、この挑戦ではあるんだけど、それをやるにあたって彼女自身はそこまでの葛藤をしておらず、割と直感的に判断していたのがやはり彼女の凄みを感じる。彼女が浅慮だと言いたいのではなく(彼女なりに考えている姿は何度も描かれているし)、こういう重要な局面で、彼女だけがシグナルをキャッチするかのように直感して、すべきと思う選択を即断できる強さがある、ということを言いたい。

・クリスマスカード、明るい部屋でバルトが取り上げてた死刑囚の写真を想起する部分がある。「これから死のうとしている、既に死んでしまった男」が写ったこの写真には、複数の時間――<それはかつてあった>という過去と<それはそうなるだろう>という未来とが並存し圧縮されている......的なことが書かれてたんだけど、クリスマスカードもまた、「これから祝福と願いを伝えようとしている、そして近いうちに死にゆく、既に死んでしまった少女」の時間が圧縮されたものとして捉えることが可能だなと。こういうピン止めされた時間を描いた上で、それを他の時間・存在と繋げていくっていうのをこのコンテンツは目指している気がする。寮の一室を開放したこととか、幸せでいてねという願いを伝えたこととか。

 

 

「私たちのためのフレーズ」

・「SDキャラ」の持つやわらかさ、というものがあるよなと思った(AI問題で通常想像されるような恐ろしさが緩和される、という意味合いで)。SDキャラだと、どうしても動きの再現に限界があるし、AI美空ひばりや、AI荒井由実みたいに精巧な見た目をしていない。そういう、生身の人間とは見た目がだいぶ違って(キャラクター的で)、動きの再現度も相対的にそこまで高くない点から、自分のコピーがいる、自分が取って代わられる、みたいな恐怖は相当軽減されるのではないか。そしてむしろ、かわいいものを愛でるような目線が強くなるのではないか。

・この話では、みんなAIへの抵抗感が薄かった。そもそも企画側が、オリジナルのコピーではなく、あくまで別個の存在としてAIを生かし、オリジナルとAIがそれぞれに感化し合うことを目指していたのもあるけど。ただそれでも、AIストがSDキャラではなく、もっと生々しい見た目をしていたら、アルストの3人やファンの感覚も違うものになっていただろうなと思う。→「人それぞれの捉え方の違い」や「他者の内面は見通せないこと」にフォーカスしていた分、嫌がられると思われていたAIをすんなり許容してくれる人もいる、ということを描きつつ(企画側と甜花ちゃんとの会話シーン)、同時に、それぞれがAIストに向ける感情のコントラストも強くなったんじゃないかと思ったり。

・AIストへの作詞を通して自分たちを見つめ直したり、共演して新たな美味しさを生み出したり(まさにWユーミンの例ですよね)、AIと人間で、相互作用できる良い関係性を築けているなと思う。ただそれは、あくまで囲いの中に置いておける、むやみやたらと使われないAIだからできているだけで、昨今のお絵描きAIなどはまた別物になってしまうよね...という部分も感じる。